2015年10月28日水曜日

元暴力団組長でNPO法人”五仁會”の竹垣悟代表「最後はぼろ切れのように捨てられる。組分裂は足を洗う絶好のチャンス」

「最後はぼろ切れのように捨てられる」 山口組4代目〝ボディーガード〟独白 組分裂は「足を洗う絶好のチャンス」

2015.10.21 08:30



「最後の賭けをしたのだろう」。日本最大の指定暴力団山口組(総本部・神戸市灘区)の分裂騒動を、こう推測する人がいる。NPO法人「五仁會(ごじんかい)」の竹垣悟代表(64)。兵庫県姫路市で、暴力団から離脱しようとしている組員や元組員らの支援活動を続けているというが、もともとは暴力団の組長。それも、山口組の竹中正久4代目組長の〝ボディーガード〟の立場だった。分裂を決意した組長らの心境も理解できる部分があるといい、「このままだったら金が続かなくなり、最後は捨てられる」と、背景に金銭問題が存在した可能性を示唆する。一方、抗争も懸念される中にありながら、竹垣代表はむしろ好機ととらえ、現役組員らにこう呼びかけている。「足を洗うには、絶好のチャンスだ」

「離脱組長ら最後の賭けか」

10月13日午前、神戸市灘区の閑静な住宅地にある山口組総本部に、兵庫県警の捜査員約30人が家宅捜索に入った。玄関前には盾を携えた県警の機動隊員が並んで警戒に当たったが、トラブルなどはなく、家宅捜索は約30分で終了した。詐欺容疑事件の関連先としてのもので、分裂後、警察当局による総本部の家宅捜索は、これで3回目を数えていた。

衝撃の分裂から1カ月半以上が経過。この間、警察当局は徹底捜査を続け、総本部や、山口組最大勢力だった山健組(本部・神戸市中央区)を中核とする13団体が離脱して結成された「神戸山口組」の関係団体などへの家宅捜索を、まるで日替わりのように繰り返した。抗争が懸念される中、一刻も早く実態把握を進めたいという考えだろう。

分裂に至った動機はいまなお謎に包まれ、憶測も交えてさまざま語られているが、竹垣代表は離脱組のメンバーから、こう推測している。

「(分裂した側の神戸山口組は)組長らの年齢を見たら、最後の賭けをしたのだと思う。このままだったら上納金を払い続け、組織の金が続かなくなり、最後はぼろ切れのように捨てられる。金を出せなくなったら、結局、ほうり出されるだけだ」

分裂の背景に金銭問題の存在を指摘する声は、これまでにあった。実際のところは分からないが、竹垣代表は山口組を割って出ることの重大さを語る。

「山口組の『盃(さかずき)』をいったん飲んだのなら、それは絶対。その仕組みを壊してまで分裂したのだから、相当な覚悟なのだろう」

一時は姫路最大の暴力団

観光客でにぎわう世界遺産「姫路城」。この近くに、竹垣代表のNPO法人事務所がある。

「強きをくじき、弱きを助ける。そんなヤクザにあこがれて、21歳で極道に入った」

入ったのは竹中組。後の竹中正久・山口組4代目組長が立ち上げた組だった。

その後、「竹中組長からの寵愛(ちょうあい)を受け」、ボディーガード役を務めたこともある。「困った人がいれば、必ず助けなければいけない」。竹中組長が口癖のように言っていた言葉は、いまもよく覚えている。

やがて、山口組を二分した「山一抗争」が勃発(ぼっぱつ)。竹中組長は殺害されてしまうが、竹垣代表は当時、収監中だったという。

自らも暴力団の組長だった。一時は組員約150人を数え、姫路で最大組織といわれたこともあったと振り返る。

だが、その後、ある組長の引退を目の当たりにし、時代の移り変わりを感じた。「ヤクザの看板で飯を食える時代が終わった」とも感じ始め、今から10年前、暴力団をやめた。

元組員を自立更生支援

3年前、社会の役に立つ活動がしたいと、暴力団員と犯罪者の自立更生支援の活動を始めた。これまで、暴力団を辞めた元組員の相談に乗ったり、仕事を紹介したりして支援をしているほか、地域の防犯活動や子供の見守り活動を行ったという。

しかし、元組員には仕事を紹介しても、長続きしないことが多い。「楽をして稼ぐ方法ばかり知っている暴力団の体質がある。しかし、社会にこうした人たちを受け入れる土壌がないことも要因のひとつだ」と指摘する。

平成4年に施行された暴力団対策法など数々の取り締まり強化で、暴力団でいることのメリットが昔と比べ、減ってきているとみている。そういうご時世だからこそ、手を差し伸べることの重要性も増していると訴える。

「暴力団をやっていてもマイナス面が多く、今の組員の多くは、惰性で続けている。暴力団に対する取り締まりを強化するだけではなく、国が自立更生支援の方策を考えるなど、それなりの対応はこれから必要になる」

「大きくなりすぎたものは必ず滅びる」

近年、暴力団組員の自主的な「離脱」を促す取り組みも始まっており、今年7月、暴力団から離脱することを希望している組員らを支援する「全国社会復帰対策連絡会議」の初会合も開催された。

そんな中、山口組が分裂した。

「分裂は時代の流れ。恐竜が滅びたように、大きくなりすぎたものは、必ず滅びる。いつかは起きる事態だった」

こうした上で、竹垣代表は現役の組員らにメッセージを送った。

「私が現役だったころ、ヤクザとしてしか生きられないと思っていた。しかし、いまは組員らに更生を促す立ち位置にいる。暴力団の末路というのは、どんなに上にいった人でも哀れなもの。社会の役に立つようなことができれば、人の見る目も変わるし、有意義な人生を送れる。足を洗って一般社会に戻ってきてほしい。私にできたのだから、きっとできるはずだ」

参照元 : 産経新聞


竹垣悟外伝・常在戦場



田岡一雄・三代目組長には、生前一度だけ逢ったことがある。私が坂本義一に付いて山口組本家の当番に行った時、現在駐車場になって居る空き地でランニングをしている姿を見たのだ。

私は、その時には「田岡一雄自伝」を読んでいたので、その内容を心の中で反芻(はんすう)しながら田岡一雄の一挙手一投足に全神経を集中させ、走っている姿を目で追っていた。その時、流石(さすが)三代目親分、人とは違うオーラがあるなと思ったものだ。それ以来、三代目・田岡一雄組長の姿が山口組の代紋と重なり、私の心を支配して行った。

私が四代目・竹中正久親分に聞いた話しだが、三代目・田岡一雄組長が覚醒剤(ヒロポン)を嫌うようになったのは「大西」と云う若者が、ヒロポンの虜(とりこ)になり、潰(つぶ)れてしまったからだと云う・・・

この「大西」と云う人は器量のあった人らしく、山口組にとっては惜しい人材だったと親分(竹中正久)は話してくれた。

・・・そう云う私もむかし、ヒロポンに溺れた時期があった。

私が20代の若かりし頃の話しだが、当時大木と云う坂本会の先輩組員が居た。私はこの男からヒロポンを段取りして貰っていたのだが或る日、なんか無性にこの大木に腹が立って、耳元でこの大木を殺せと囁(ささや)くような声が聞こえて来た。

私はこれぞ天の声だと思い、大木に匕首(ドス)を持たせた・・・当然、大木は何のことか解からず目をパチクリさせていたが、私も匕首を持ち躊躇(ためら)わず大木の頭を削(はつ)った。そしてメッタ斬りにした。漫画みたいな話しだが、ここがヒロポンの恐ろしいところだ。

人を慈(いつく)しむと云う感情が無くなり、この男、凶暴につきと化すのである。私の場合、特にこの傾向が強く、野良犬もヒロポンを打った私の側には近寄らなかったぐらいだ。私はヒロポンを打つと、自分の行動をコントロール出来なくなるのである。

頭の中で「相手を殺せ、殺せ」と悪魔が囁くような感じになり、また私の性格上、押して突いての極みになるのだ。ヒロポンを打ったときの私は狂犬どころの騒ぎではなく、悪魔の申し子のようになっていた。これは自慢にはならないが、今思えば若気の至りだ。

人間の狂気と云うものは、止(とど)まる事が無いと、このとき自分ながら思ったものだ。例えて云うなら、渡哲也主演の仁義の墓場・石川力夫のようになるのだ。・・・或る日のことだ。私がヒロポンを打って狂っている時、当時の竹中組三羽烏の内、平尾光と笹部静男を筆頭に竹中組の幹部クラスがひとりずつ私の所に来た。

そして「覚醒剤を止めるようにと親分(竹中正久)が云うてるで」と伝えに来たのである。私は気狂(きちがい)以上の「頭が飛んだ」状態だったので、それには不気味な返事しか出来なかった。そして何日かして竹中組総会の日に、親分(竹中正久)の前に行った。

その時親分は私に「俺の親分である田岡一雄が覚醒剤は止めとけと云っているのに、若い衆である俺がかまへんと云えるか」「悪い事は云わんから、覚醒剤みたいなしょうもないもんは止めとけ」と云われた。

その時に田岡三代目と大西と云う若者のエピソードを聞いたのである。私はそれから暫くして、ヒロポンを止めた。

  ・・・そんなむかしの事を考えながら去る2月26日に、三代目田岡一雄組長の仏壇と位牌がある田岡邸に盛力健児(釈徳盛)・嵩山少林寺グループ総帥と行って来た。そして三代目の長男・満(みつる)氏の骨つぼと田岡家の位牌に線香を供え、手を合わせて来た。

昭和の名残りがする田岡邸にはヤクザの匂いが微塵(みじん)もせず、重厚な堅気の世界しか見えて来なかった。田岡一雄と文子姐さん、それに中村英子(元東映女優)の遺影が何よりも、それを物語っていた。

バンブーコミック(竹書房)発行の「血と抗争・菱の男たち」3・5・6巻に後書きをしたのも何かの縁である・・・余談だが、私がヒロポンを止めてから30数年が経つが、それでも人は陰で私の事をポン中だと云っているそうだ。

義竜会最後の若頭だった渡辺(渡世名・剣)真文に云わせれば「親分(私のことである)の場合、ポンを打ってなくても打ったようになるからいいじゃないですか」と云うが人が見れば、まさにその通りなのだろう・・・

私は12年余り前にバットで殴られ三途の川を渡り、あの世と、この世の境である六道の辻まで行って来た。そこで、高祖父・田中河内介の魂に触れ、九死に一生を得た。それ以来この世に恐いものがなくなり、無鉄砲な男になったのである・・・

参照元 : NPO法人五仁會


姫路事件(ひめじじけん)は、1980年1月10日から同年3月6日までに起こった木下会(関西二十日会に所属)と三代目山口組竹中組との暴力団抗争事件。田岡一雄が関西二十日会との和平交渉を行っていた最中に発生した。

経緯

発端
1972年、姫路市の三代目山口組竹中組・竹中正久組長が、元山陰柳川組津山支部長・杉本明政と小椋義政に盃を与えて自身の若衆とした。杉本は竹中組津山支部を名乗り、小椋は竹中組津山支部の代貸になるとともに建設業を営んだ。

その後小椋は道路交通法違反で1977年から1979年まで鳥取刑務所に服役したが、服役中に自身の愛人が岡山県岡山市の木下会平岡組の組員と親しくなっていたことに加え、津山市の竹中組津山支部の縄張りで金融業や麻雀荘を営業していたことに激怒。脅しをかけられた平岡組は謝罪したが、小椋は承服しなかった。

木下会による小椋義政殺害
1980年1月10日夜、木下会平岡組組員・片岡一良と平岡組組員・池元幸男の二人が小椋の事務所を襲撃、小椋と山口組小西一家小島組組員・水杉義治を拳銃で射殺した。翌11日には竹中正久と細田組・細田利明組長、岡山市の竹中組の竹中武組長が、津山市の杉本宅に集合。

13日に津山市の経本寺で小椋の葬儀が営まれ、直ぐ様竹中組が高山の愛人宅を銃撃。高山は兄弟分の白龍会・山田忠一組長に調停を頼み、山田から湊芳治を通じて両者の仲裁が図られた。

高山は、湊、山田と姫路市の大崎組・大崎英良組長と相談し、高山が小椋の霊前に線香をあげることを、白龍会・吉田勇副会長を通じて竹中正久に伝えた。平岡組・平岡篤組長は断指し、高山は湊・山田・大崎英良とともに竹中正久に会い、平岡篤の指と香典400万円を手渡した。

さらに「小椋と水杉の殺害に関係した木下会組員を絶縁にする」と高山は表明したものの、湊が「絶縁まではしなくてもいいだろう」と発言し、その場は竹中も高山も湊の提案を了承した。

竹中組による木下会への頂上作戦
湊の発言について竹中は「絶縁まではしないが、破門にする」と解釈、一方の高山は「一切処分しなくてもいい」と解釈していたことがさらに抗争を深刻にしてしまっている。木下会からの破門状は竹中組に届けられず、3月25日に竹中正久は、細田とともに田岡一雄の自宅を訪ね、木下会への報復を示唆した。

5月に入って、竹中組岡山支部長・松浦敏夫と岡山竹中組若頭補佐・藤田光一らが、岡山駅構内で木下会幹部を待ち伏せしたものの結局遭遇できず、松浦・藤田は殺人予備罪で実刑判決を受ける。

更に小椋・水杉殺害に関係した木下会組員が処分されていないことを竹中正久は知り、竹中組若頭補佐・平尾光をリーダーとして竹中組大西組・大西正一組長、竹中組幹部・高山一夫、岡山の竹中組若頭補佐・山下道夫、山口組竹中組杉本組組員・山田一の5人から成る襲撃グループが結成される。

平尾らの一党は、木下会の姫路市の幹部を狙ったが狙撃の機会を得られず、岡山竹中組に移動して木下会の岡山市の幹部を狙った。それでも狙撃の機会が無く、5月6日に姫路へ戻った。

5月13日、高山雅裕は、2女の結婚式の礼の挨拶で姫路市内の知人宅を訪問し、その後、姫路市東駅前町の木下会事務所に戻った。午後6時ごろ高山は、木下会組員の森崎右、松本平次、工藤二三雄、則本一蔵を連れて、木下会事務所前に停めておいた乗用車に乗ろうとした。

平尾は、大西ら4人に指示して高山雅裕に近づかせ、2メートルの距離から拳銃で9発の銃弾を発射。高山は2発の銃弾を受け、そのうちの1発が心臓に達しており即死。森崎は、頭部と右頸部を撃たれ、搬送先の病院で死亡。松本、工藤、則本は重傷を負った。平尾らは市道十二所前線を西に40メートルほど走り、小溝筋商店街を抜けて、姫路駅方面に逃走した。

この日竹中正久は、山口組若頭補佐・山本広とともに千葉県鴨川市で行われた双愛会会長の葬儀に出席し、黒沢明、名古屋市の名神会・石川尚会長、益田(啓)組・益田啓助組長らと帰途の途中だった。

ボディガード役の竹垣悟と平野一男とともに姫路駅に到着すると、徒歩で姫路市十二所前の竹中組事務所兼自宅に戻った。高山の葬儀は「あつみパラダイス」で行なわれたが、竹中正久は竹中組若衆・大西康雄とともに葬儀に出席している。

津山での拉致未遂と事態の決着
7月、津山市で、竹中組杉本組組員・内山誠治と杉本組組員・福田徹が、木下会島津組津山支部幹部・坂本貢を車で拉致しようとした。この時坂本が車から逃げたため、福田徹が拳銃で坂本貢の左大腿部を撃ち坂本に重傷を負わせた。

三代目木下会を継承した大崎圭二は、岡山竹中組の竹中武組長に直々竹中組津山支部の木下会への襲撃理由を問い質し、竹中武は津山支部に赴いて組員・小島大助に襲撃理由を訊ねた。

小島大助は「坂本貢が木下会から破門され、木下会と関係ない人物になったために襲撃した」と返答し、竹中武もその旨大崎に伝えた。その上で、竹中組からも竹中組津山支部からも見舞いは出ないが、竹中武個人名義ならば坂本貢を見舞う準備があることを大崎に表明している。

これに対し、大崎は坂本への見舞いを要求。竹中武は、若衆を津山市の坂本貢の入院する病院に派遣したが、警察官が病院を警備していたために病室には入れず見舞金を持ち帰った。

仕方なしに竹中武は、竹中武の若衆2人を連れて、岡山市中山下町の木下会事務所に赴いた。そこで竹中武と大崎は人払いして話し合い、「絶縁まではしなくてもいいだろう」という湊の発言をお互いが異なった解釈をしていたことに気がついた。

同年末までに、竹中組組員49人が逮捕された。

その一方で、湊の舎弟・北田悦也が竹中組と木下会の仲裁に動き、年が改まった1981年1月に竹中兄弟は北田の工作を知ることになる[4]北田の工作を受けて、竹中正久は木下会に香典を送ることを了承。これを受けて北田は、竹中正久の意向を大崎に伝え、大崎からの了解を取り付けた。

同年3月6日、竹中正久と大崎は、山口組湊組事務所2階で、再度手打ち式を行った。仲裁人は山田忠一の代理・吉田勇と大崎英良と湊。見届け人は山口組若頭補佐・山本広(後の一和会会長)だった。竹中正久は高山雅裕と森崎右の香典として、1000万円を大崎に贈った。

田岡組長の態度
この抗争は、大阪戦争に端を発する関西二十日会との対立と仲裁をめぐる時期と重なっていた。当然、一連の抗争は二十日会側との対立を激しくするものであった。だが田岡組長自身は一連の抗争について黙認していた節がある。

小椋組長殺害をめぐって木下会が処分を先延ばししていることについて、竹中正久は報復を示唆していたが田岡からは何も異論が無かった。木下会の高山組長が殺害された後に、田岡は自宅に竹中正久を招き、山口組本部長・小田秀臣(山口組若頭補佐)に、山口組から500万円を出させている。

竹中正久は固辞したが、山口組若頭補佐・加茂田重政(後の一和会副会長兼理事長)が500万円を竹中正久の背広のポケットに押し込んで、竹中正久を納得させた。


・破門は絶縁に比べて、1段下の処分
・3月28日は田岡一雄の誕生日であり、誕生日の前祝の意味があった。さらに、細田利明は1980年3月28日からベラミ事件での銃砲刀剣類所持等取締法違反で1年4ヶ月服役することになっていたため、細田には服役前の挨拶の意味があった。
・まだ高山の殺害犯が不明で、平尾らの逮捕で犯行の全容が判明したのは10月頃であった。
・岡山東警察署(現・岡山中央警察署)の刑事から北田が大崎圭二の事務所にいたことを聞かされた竹中武が、北田の兄弟分・牛尾洋二(牛尾組組長)に北田の行動の真意を探ってもらうように依頼し、それを受けて北田は仲裁に動いていることを竹中正久に伝えている。

参照元 : wiki/姫路事件

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