2016年5月21日土曜日

児童ポルノを含むわいせつDVDを販売の疑いで、指定暴力団二代目東組幹部組員ら8人を逮捕

児童ポルノDVDなど20万点押収 暴力団組員ら逮捕

2016年5月21日(土)8時59分配信

児童ポルノを含むわいせつDVDを販売したとして、滋賀県警組織犯罪対策課などは20日、わいせつ電磁的記録頒布と児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで、指定暴力団二代目東組幹部組員、田村順一容疑者(54)=大阪府豊中市=ら8人を逮捕し、大津地検に送致したと発表した。

逮捕容疑は、平成26年8月から28年2月にかけて、インターネットサイトで児童ポルノを含むわいせつなDVD約40枚を販売したとしている。田村容疑者は「よくわからない」と容疑を否認している。

同課によると、県警などが二代目東組の資金源を捜査していたところ、田村容疑者らが管理するサイトでわいせつなDVDなどを販売していることが分かった。県警は、DVDなど約20万点を押収した。

参照元 : 産経新聞

東組



東組(あずまぐみ)は、日本の大阪・西成に本部を置く暴力団。指定暴力団。構成員の総数は2011年の警察庁の報告で約180。2014年の報告で約150。

暴力団の群雄割拠地帯と言われてきた西成地区にありながら、山口組などの大団体の傘下に収まることもなく、その創立からというもの常に独立状態を貫き、さらには他団体との縁戚関係の樹立も行わずに来た組織で、そうしたことから“孤高の少数精鋭”などと謳われてきた。

“武闘派一門”や“喧嘩の東組”などの異称をもっても知られ、1973年のミナミにおける些細なトラブルに発した山健組との銃撃戦を皮切りに、山口組とは暴力的な対立抗争事件を数次にわたって引き起こしてきた。

来歴
創立者の東清はもとは“浪花の侠客”として名のあった池田大次郎率いる池田組の系列組織の幹部で、同組の解散に伴い1960年頃に西成を本拠地としてこの東組を結成、当初の人員総数はわずか30足らずであったものの、1973年頃には120名を数えるまでになっていた。1993年の8月をもって暴力団対策法に基づく指定暴力団へ。やがて長年にわたり首領の座にあった東清が2010年の初め頃に引退。時の若頭であった滝本博司が跡目を継承した。

情勢
同じく西成本拠の酒梅組と並ぶ指定暴力団で、本部の所在地は大阪府大阪市西成区山王(1-11-8)、大阪府内を専らの活動地としている。その人員総数は2011年度における警察庁の報告によればおよそ180。大阪府警捜査四課の同年度の報告によればおよそ290で、覚醒剤の密売を主な資金源としている。構成員の大部分が大阪出身者で占められている。往時には上層部の多くが西成出身者であったものの、西成出身の構成員は今や少数派であるという。



抗争史
勢力の伸張を経て有力団体の一となった1973年頃からというもの、東組は他の暴力団組織を相手取った幾度かの抗争事件の当事者となってきた。その代表的なものとして、山口組ならびに酒梅組とのそれが挙げられる。

対山口組
1973年(9月)、大阪・ミナミの繁華街にて所属構成員と山口組系山健組の構成員との間で些細なトラブルが発生。これが互いの本部事務所を銃撃し合うほどの大抗争へと発展した。早期に手打ちが実現したものの、当時の山口組でも屈指の好戦勢力として知られていた山健組を相手に引けを取らない戦闘行動を展開したとして、この抗争は組織の名を世に広く知らしめる結果となった。

1982年の3月にも山口組の二次団体との抗争事件を引き起こし、さらに1987年になると、別の山口組の系列組織と半年間にわたって抗争を展開。26件の事件をもって5名の死者と2名の負傷者を出すに至ったその抗争は、のちに“泉州抗争”と題された。

対酒梅組
1983年、時の関西地方でも屈指の勢力を有していた五代目酒梅組との対立抗争が発生、わずか2ヶ月の間に、大阪のみならず奈良、京都、和歌山、さらには熊本や鳥取までをも舞台として、およそ40回にものぼる抗争事件を引き起こした。双方合わせて死者1名、負傷者8名、逮捕者107名。“新大阪戦争”としてマスメディアを通しての注目を広く集める結果となった。

幹部陣



組長:滝本博司
副組長:川口和秀(二代目清勇会会長)― 22年余の長期服役を2010年12月に満了
若頭:田村順一(三代目森田組組長)― 事務局長の役を経て、二代目体制発足に伴い若頭の役に就任。
本部長:赤松國廣(初代赤松組組長) ― 2011年1月に死去

若頭補佐
田中明彦(田中組組長/清勇会若頭)
土方基成(総長付/司成会会長)
中江常雄(二代目滝本組組長)
横山定光 ― 2012年に死去

組長秘書
藪田等(藪田組組長)
宮脇信行(三代目赤松組組長)
相談役:渋谷正玄(二代目州平会長)
慶弔委員長:土井良一
事務局長:木村純壹 (木村組 組長)

系列組織 2010年発足の二代目体制における傘下組織は総数20ほどで、その3分の1は二代目体制発足に伴う形で新たに誕生。

山澤正敬(本家付 三代目森田組本部長) ― 府内堺市に育ち、10代後半頃から豊中市内の森田組本部への出入りを開始。田村順一(三代目森田組組長)のもとで正式に森田組へと加入した。

大野大介(本家付 二代目清勇会若頭) ― 府内貝塚市出身で、10代半ば頃に暴力団界入り。のちに一度はカタギに戻るも、呉本幸造(二代目清勇会会長代行/初代幸導舎組長)の傘下で復帰。

呉本公一(二代目清勇会本部長) ― 府内和泉市育ちで、知人関係から同市南部の幸導舎事務所への出入りを始め、17歳時に暴力団界入り。それから5年に及んだいわゆる部屋住み修行を経て、幸導舎組長・呉本幸造の養子分となり苗字を呉本へ。2011年の8月に幸導舎の二代目を襲名。

隈村州男(二代目清勇会若頭補佐)― 東組本部のごく近場の出身で、赤松國廣(二代目東組本部長)とは家も近所で古くからの知り合いであった。そうした縁から2002年に赤松のいわゆる舎弟となって暴力団界入り。2011年の4月に清勇会の若頭補佐の役を得た。[7] 二代目東組発足時にはいわゆる「盃直し」(組織再編の儀)で媒酌人の役を務めた。

参照元 : wiki/東組




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